陸上
何かにつけて自分は他人に期待される。
それは表現の仕方や環境次第で『優しさ』だったり『押し付け』に変わったりするが
どちらであってもその全てを飲み込んだ後、誰もを傷つけないような順当な成果を吐きださなければならなかった。
例え結果が残念なものであっても、それまでの経緯を元に真っ当なストーリーが語れれば良い。
インターハイに行けなくても、高校に合格できなくても、優しい人になれなくても、真面目な人になれなくても、理屈をこねて残念そうに悔しそうに落ち込んでさえすれば全てが丸く収まる。
だから皆の期待など無いに等しい。怖がる必要など無い。期待に応えたって裏切ったってどっちにしろどちらかのパターンに応じた言葉を語るだけだ。期待してくれてありがとう。期待を裏切ってごめんなさい。そのどちらか。
そもそも自分のレーンで最高のパフォーマンスをしても他の選手がそれより速ければ負けというくだらないスポーツだ。自分が変えることができる結果は自分のレーンで起こることでしかない。ならば自分のレーンで自分らしく走ったほうが得に決まっている。例えそれが他人を裏切る形になっても。
しかし
自分のレーンで自分らしく一生懸命走ることが他人の期待に応えようとする姿勢を示すことにたまたま繋がることなど、陸上のような単純な運動くらいしかない。その理論を信じて日常生活に持ち込めば痛い目を見るのは明らかだ。
だから
期待されてしまったら終わりだ。
結果がどうあれ、期待に応えようとする姿勢を示さなければならないからだ。そして、その姿勢を示すことが、自分のレーンを走ることに繋がらないのであれば、ずっと誰かのレーンを彷徨うことになる。
これをずっと小さい頃から続けているならば、そもそも自分のレーンなど無い。
自分らしさとは他人との関わりの中に確立するものだなんて良く言うもんだ。確かにたまに誰かのレーンの中に面白そうなものがあることはあるが、それは自分のレーンと比較があっての話だ。自分のレーンがそもそも無い者にとっては意味がない。
だから
ずっと微量な感動でもいいから残さず拾うことに必死になっている。自分のレーンが曖昧なら他人のレーンもない。レーンの敷かれていないただの陸の上でウロウロウロウロ確かな感動だけ求めて探しまわっている。
そして
その感動を他人の期待に応える上で誤魔化すことのないように信じるしかない。自分に向き合うとはそうゆうことだと信じる。