循環器内科

 

大分前に読んだ星野源のエッセイを読み返すと先日自分が言ったことと同じ事が書いてあった。

おそらく過去の自分がその言葉に感銘を受けて考えを参考にしたんだろう

 

 

が、言った時に『これは星野源のエッセイに書いてあった考えだ』と思っておらず『これは自分の考えだ』と思って何の疑いもなかった。怖い。

 

 

こうなると今の自分が言った言葉は自分で考えた言葉とは必ずしも言い切れない事がわかる。

では自分の考えのどこまでが自分の考えなのか

考えれば考えるほど分からない。

 

 

 

でも少しわかったのは

 

 

『自分の考えのどこまでが自分の考えなのか考えれば考えるほど分からない』という考えを過去に誰かから聞いたのかも知れないということ。

 

 

ならば

 

 

この言葉を過去の自分が誰かから聞き共感して取り入れた場合『自分の考えのどこまでが自分の考えなのか』という疑問を枕詞にして『考えれば考えるほど分からない』と反射的に答えてしまう気がする。

 

 

だとしたら

 

 

『考えれば考えるほど分からない』とあんまり考えずに言っていることになる。良くない。

考えればわかることがあるかも知れないのに、無意識に考えなくていいように言葉が先回りしている。

こうして呪いのように過去の言葉が残って今の自分のに影響している。

 

 

本当に過去の自分が共感して取り入れた言葉が今の自分の言葉を作っているとするならば

今の自分が共感して取り入れた言葉が未来の自分の言葉を作っているということになる。

 

 

そう考えると尚更

今の自分が言う言葉には誠実になるべきだと思う。

しかしそれは無理に等しい。対人コミュニケーションにおいて自分に誠実になる、つまり嘘を付かないとなると思いやりがない、共感性がない人となる。

嘘でも出来るだけ愛想良く接しないといけないって狭い教室で呪いにかけられたじゃないか。

 

 

だとしたら自分の心の中だけは誠実にならなければならない。例え会話の流れの為に言った言葉が嘘であっても自分で思った言葉は言った言葉に負けずに保ちつつけなければならない。

 

 

生きてただ生きていて

踏まれ潰れた花のように

にこやかに 中指を

 

 

まるでこの言葉通りだと思う

 

 

でもこの言葉は星野源の曲の歌詞の一部...

 

 

〜ふりだしに戻る〜